FC2ブログ

曼荼羅

曼荼羅 4

 ←曼荼羅 3 →曼荼羅 5
 はじめまして、と二人―現在は夫婦である二人が初めて向き合ったときの奇妙な空気を俺は今でも不思議に思う。母の入院している病院で、母の枕元で。そのとき、母は眠っていた。俺はただ母の傍に座って、眠り続ける彼女のやつれた顔を見下ろしていた。目を開いて微笑んでくれることもあったが、それは次第にごく稀になっていった。

 アカペラ合唱団のその女の子と、その日以来なんとなく親しくなった俺は、母親が入院していることを、週末には病院へ通っていることを深い考えもなく話してしまい、栗子は、気を使ったのか分からないが、お見舞いに行きたいと言い出した。

「なんで?」
「そりゃ、入院している人がいたらお見舞いに行くのが当たり前じゃん」
「それは知り合いとか友人とか恋人とか家族とかじゃないのか?」
「もう知り合ってるじゃない」
「いや、俺と知り合っていても、俺の母さんとは他人だろ」
「知り合いの家族は、他人じゃないよ」

 栗子はにこっと綺麗な笑顔で歯を見せた。よく分からない理屈だが、別にどうしても断る理由はなかった。病院までの道中、話し相手がいてくれても良いかも知れない。

 病室に入ると、花瓶の花を替えている父がいた。父は週末と言わず、仕事の合間に時々病院を訪ねているようだ。

「あ、来てたんだ…」俺は、こちらを向いた父に、栗子を紹介した。
「友達。栗子さん」
「はじめまして」と栗子は軽く会釈をした。父の方へ視線を向けると、彼は動きを留めて、驚いたというのか、いや、落胆の混じったような変な顔をして彼女を見つめた。
「こちらこそ」

 父は目を細め、すぐに視線をそらすと花を花瓶にそっと活けて母の枕元に戻した。
 俺は、もう二人から意識をそらし、眠る母の顔をじっと見つめた。

 父と栗子もその後、特に言葉は交わさなかったのだが、母を挟んで対峙している二人は、明かにお互いが変な空気を抱いてそわそわしているというのか、妙な緊張があったように感じられた。


 母を失うということは、一つの世界を喪失するほどの衝撃を受ける出来事だった。覚悟はずっとしていた筈だったのに、実際に臨終を告げられたときは、全身から力が抜けるような感覚に陥った。

 そして、そのときよりも。

 葬儀が終わって日常が戻ってからの方が喪失感がものすごかった。亡くなる数ヶ月前から、もうずっと母は家にいなかったのに、それでも病院に会いに行けば、そこに母はいた。会いに行けば、そこにいる。それだけの存在でも、それは俺を根本から支えてくれる大きな温かいものだった。自分がそこに生きていることを、母の寝顔を見つめることで確認していたようなそんな時間だったのだと、もう母の寝顔すら見ることが出来なくって知った。

 その頃、俺は自分の不安定さに手一杯で、空気に溶けて消えてしまいそうな心許なさを取り繕うのに必死で、父のことも栗子のこともまったく眼中になかった。栗子は、死の手続きから葬儀まで、俺たちに付き添っていろいろ手伝ってくれた。それをおかしいとも思わなかったくらい、俺は動揺していたんだと思う。そのとき、父がどんな風だったのかも思い出せない。目に映るものすべて、流れる景色として過ぎ去っていたんだろう。

 母に親族はなく、父の親戚たちだけですべては進んでいった。父も葬祭関係には疎く、なるべく簡素化して簡単にすませようという彼らの思惑に逆らって、栗子だけがそれに反対し、父を説得していたようだった。

「人の生き死には、次の生にも影響を与える大きな節目なんだから、真っ直ぐに次の世界に向かえるように出来るだけ道を綺麗にしてあげないと」

 栗子は言った。

「お金の問題じゃないよ。ううん、金額の問題にはなるけど、儀式を簡略化してはダメ! 宗教観や死生観にも寄るんだろうけど、基本的なことは同じ。地球上に生まれて、生きて、また死の世界へ還る。カルマを解消して、ダルマを積んで、一段高いレベルに到達するために。この世界で果たせなかったことをまた繰り返すために」

 俺は、正直、栗子の言葉をあんまり真剣には聞いていなかった。彼女の目は、労わるような、慈しむような優しい色合いをしていて、俺はただその柔らかい光に見つめられて、うんうん頷いていた。

「母さんが、これ以上苦しまないなら良い」

 眠ってはいても、母は、時々苦悶といった表情を浮かべることがあった。痛みだろうか、苦しみだろうか。或いは悪夢を見ていたのか、それは分からない。せめて、母がその苦痛から解放されたことを、それだけを良かったと思いたかった。

「生きている人が、見送る人が、精一杯のことを尽くしてあげれば、安らかに逝けるんだよ。そして、また会おうって言ってあげて。家族だった人は、縁が深い人。一緒に何かを成し遂げるために同じ時間を共に生きたんだもの」

 唯一記憶の片隅にあるのは、そのとき父が、穏やかな目で栗子を見つめていたということだった。感情のよく分からない、静かな眼差しを栗子に向けているのをなんとなく目の端に捉えていたように思う。

 不在の存在感というものを一番ずっしりと感じたのは、週末だった。いつもなら、母の病院へ行って、もし目覚めていれば僅かでも意思の疎通がはかれたし、眠っていてもいつか目覚めるときを思って耐えることが出来た。事故に遭う前に戻れはしなくても、まだ時間があると信じていた。

 高校の卒業を祝うときも、就職するときも、人生の転機には共に喜んだり悲しんだりしてくれる母がそこにいてくれるものと思っていた。初めての給料で、父と母が喜ぶものを買ってあげるというベタなことも普通に出来ると信じて疑わなかった。

 自分を生み出してくれた人を失うという闇は、世界が消えてしまうような空虚感を伴ってしばらく俺の心を苛んでいた。

 そのとき初めて、「死」とはまったく相容れない別物だという気がした。人生に於いて、影の部分、なるべく長い間、触れずに済ませたい負の部分。生まれる前にいた場所とは明確に違う。薄明るさも温かさもない冷たく真っ暗な世界。そんな風に思えた。それは、俺の「若さ」が感じた恐怖だったのかも知れない。

 気がつくと、父が母の遺影の前でしょんぼりと座っている姿がそこにあった。まさにしょんぼりとしか言いようのない憔悴したような小ささだった。母の死を告げられたときも、葬儀の最中も、父は涙を見せなかった。わんわん泣いている俺とは裏腹に淡々とした表情をして、唇をきっと結んで、ほとんど口を開くこともなかった。

 父のしょんぼりした後ろ姿。小さな背中。それを見て、俺は泣くのをやめた。

 悲しみも喪失感の痛みも、小さな箱にしまい入れ、その残り香を時々思うだけにしようと思った。一人になって、その箱の底に溜まる涙の重さに耐えられなくなったとき、そっと蓋を開けて思いを解放してやろう。

関連記事
スポンサーサイト


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 六趣輪廻
もくじ  3kaku_s_L.png 
もくじ  3kaku_s_L.png 夜船閑話
もくじ  3kaku_s_L.png 刹那
もくじ  3kaku_s_L.png 蓮華国
もくじ  3kaku_s_L.png タナトスの翼
もくじ  3kaku_s_L.png さくら
もくじ  3kaku_s_L.png 聖火
もくじ  3kaku_s_L.png アニマ
もくじ  3kaku_s_L.png 聖~セイント~
もくじ  3kaku_s_L.png 狭間
もくじ  3kaku_s_L.png 完全数
もくじ  3kaku_s_L.png 天女のように
もくじ  3kaku_s_L.png 藍色哀歌
もくじ  3kaku_s_L.png こくはく
もくじ  3kaku_s_L.png 曼荼羅
総もくじ  3kaku_s_L.png 短編
もくじ  3kaku_s_L.png ザ!霊障
  • 【曼荼羅 3】へ
  • 【曼荼羅 5】へ

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【曼荼羅 3】へ
  • 【曼荼羅 5】へ