藍色哀歌

藍色哀歌 第三部 飛翔2

 ←藍色哀歌 第三部 飛翔1 →藍色哀歌 第三部 飛翔3

「おい、あんた、大丈夫か?」

 その声にはっと気づくと若い男が僕の顔を覗き込んでいた。その顔がぐるぐる回る。彼の顔の向こうに青空が見えて、ああ、そういえば大学からの帰り道だったのだと思い出した。

「す―すみません」

 起き上がろうとするが、手足に力が入らなかった。

「救急車を―」
「いえ! 止めてください、大丈夫です」

 病院へ行く訳にはいかない。僕は彼が携帯電話を取り出そうとするのを必死に制する。

「そうはいかないよ、あんた。恐ろしいくらい顔色が悪い」
「ダメです、良いんです」
「…じゃあ、家はどこだ、送るよ」

 僕は初めて相手の顔をしっかりと見上げた。浅黒い肌、感情の分からない漆黒の瞳が俺を見下ろしていた。背も大分高いようだし、男の僕のことですら軽がると抱えあげてしまいそうな太い腕だ。太陽を背にした彼に姿はなんだか眩しい。

「すみません、ではお言葉に甘えます」

 彼に支えられながらアパートの部屋に辿り着くと、僕はそのまま部屋の中に倒れこんでしまった、らしい。次に目を開けたとき、僕は病院のベッドの上だった。

 もう彼はいないだろうと思ったのだが、見上げていた天井からふと視線を移すと、彼はベッドの脇の小さな椅子に静かに腰掛けていた。

「悪いな、俺には手に負えそうになかったんでね」

 僕の視線を捕らえると、彼はそう言った。僕に文句を言われるかも知れないのに、目覚めるまで待っていたなんて律儀な人だと少し笑みがこぼれそうになった。

「いいえ、ありがとうございました」
「俺は―どうすれば良い?」

 彼はまるで無表情にそう聞いた。

「え?」
「あんたは、入院する訳にはいかなかった、そうなんだろ? 金か?」

 あまりに淡々と言われて、僕は思わず答えていた。

「いいえ、僕は―僕はどうしても…まだ、死ぬ訳にはいかないんです」


「本当のことを知る覚悟は、出来ておりますか?」

 料理が運ばれてくる前に、蒼次郎は再度、藍子を静かに見つめた。

「はい」と藍子も静かに応えた。
「知らない振りをしてくださっても良いんですよ?」
「…そうしようかとも思いました」

 藍子は真っ直ぐに蒼次郎を見つめたまま言った。

「でも、どうぞ教えてください、蒼次郎さんのことを。本当の蒼次郎さんにお会いしたい。お願いします」
「藍子さん」蒼次郎は表情を動かさなかった。彼女の言葉を予想していたのだろう。「今はようやく婚約が整ったばかりの微妙な時期です。今、動くのは危険です。小さなほころびが大きな失敗を生む可能性が大きい。あなたの変化は分かり易い。もう少しお待ちいただけませんか」

 何か言いかけて、藍子は唇を震わせて口を閉じる。彼女もまた、その答えを予想していたのかも知れない。俯いた藍子は食卓の水の影がゆらゆらとテーブルに揺れる様を見つめる。

 蒼次郎は僅かに沈黙して再び口を開いた。

「いつから、ご存知でしたか?」
「初めてお会いした瞬間に」

 そう、彼が目の前に現れたとき、藍子が想像していた人物像とは明らかに違う男だとはっきりと分かった。しかし、あのとき、蒼次郎の存在を否定することは決して出来なかった。決して。

 そして、まったく知らない男であることが分かっても尚、どこか彼が蒼次郎であることも伝わってきた。その言葉に出来ない不思議な感覚。それはずっとずっと付き纏っていた。藍子の中に育っていた蒼次郎という人物、目の前に立つ男にこれまで二人で築いてきた軌跡は感じられないのに、でも、彼は紛れもなく蒼次郎であるという相反した確信。

 それから藍子がもっとも混乱を極めていたのは、目の前の蒼次郎に対する大きな感情の揺れだった。
 蒼次郎は不意に目を細めた。

「では、貴女の中では蒼次郎は確かに生きていたんですね」

 え、と藍子は顔をあげる。

「それは、どういう意味ですか?」藍子はふと怪訝な表情を浮かべた。
「失礼」蒼次郎は笑みを浮かべたまま答えた。「あなたの中で、蒼次郎は、はっきりとした人物像が育っていた。そういうことですね」
「ええ」
「藍子さんの中で蒼次郎はどんな人物だったかお聞かせいただけますか?」

 藍子は泣きそうな目で、それでも静かに微笑んだ。それまでどこか緊張した面持ちだった彼女の空気が不意に柔らかくなり、それだけで彼女にとって蒼次郎がどれだけ温かい存在だったのかが推し量られる。

「私の一番大切な方です。私が日々思うことも悩んだことも、すべてご相談申し上げたのは、蒼次郎さんただお一人でしたから。大好きで、本当に大切な…一言で言えば、兄のようなものだったと思います。ですから、お会いしたことがなくても、蒼次郎さんは私の中ではずっと蒼次郎さんとして存在しておりました」

 藍子の瞳には涙が光った。それでも、微笑んだまま彼女は続ける。

「お手紙のやり取りをする間に、お互いのいろいろな情報は得ておりましたので…例えば、蒼次郎さんは私とそれほど身長が変わらない筈でしたし、スポーツをなさるよりも勉学に励まれる方でした。そんな風に日に焼けた肌の色はなさっていなかったでしょう。それにとても柔らかい空気を抱く方でした。それはお手紙の文面からも言葉遣いからも…、それに私に対する厳しさ、優しさはもっと穏やかで静かな方でした」
「ええ」蒼次郎は言った。「俺が会った蒼次郎はまさにその通りの男でした」
「ああ、―蒼次郎さんは今どこに」

 蒼次郎はただ黙って彼女を見つめた。藍子はそれ以上食い下がらなかった。聞くのが怖かったのかも知れない。

「俺が誰かとはお聞きにならないんですね」
「私にとっては蒼次郎さん以外の何者でもありません」藍子は答えた。
「ええ、そうですね」蒼次郎も頷いた。

 やがて料理が運ばれてきた。次々と食卓に並ぶ色とりどりの綺麗なディッシュ、それに視線を落として藍子は不意に泣きそうな目をした。店の人が扉の向こうに消えると、彼女は俯いて小さな声で言った。

「蒼次郎さん、…私が好きなものをすべて覚えていてくださったんですね」
「ええ。彼は、あなたが好きな食べ物、好きな花、好きな作家、そういうものをすべて覚えてましたよ。それに」

 蒼次郎は初めて心からという笑みを浮かべた。

「彼はあなたからの手紙を一言一句空で覚えていて、それを俺に披露してくれました。まぁ、もちろん、すべての手紙の全文をではなかったと思いますがね」
「え」と藍子ははっと顔をあげた。「ど―、どの手紙の…どんな文面を?」
「ええ」と蒼次郎は懐かしそうな表情を浮かべた。
「‘藍子お嬢さまは、まるで日本人形のような真っ直ぐで一本一本が絡むことなく背中の肩甲骨の下辺まで届く長い髪をお持ちです。’」
「え、ええっ?」
「‘眉はややくっきりと太めで、目はむしろ―’」
「も、もうけっこうです!」

 パッと顔を赤らめて彼を睨みつけた藍子を、蒼次郎は目を細めてじっと見つめた。それは彼の目を通して本物の蒼次郎が彼女を愛しく見つめる眼差しのようでもあった。そしてその瞳の奥には僅かに憐憫の色が浮かんでいる。その悲しみは、幼い頃からずっと藍子と手紙のやり取りを交わしながら、今ここにいない幼馴染にして婚約者であった本当の蒼次郎に対する思いだったのかも知れない。

「あの―」俯きながら、藍子は聞いた。「そ…蒼次郎さんは、その、私が差し上げた手紙はお読みになったんですか?」
「それは、もちろん」と涼しげに彼は答えた。「俺は蒼次郎ですから」
「ひどい!」
「何が?」
「そ…そんな、私が蒼次郎さんに差し上げた手紙は、…その、蒼次郎さんに差し上げたものですから…」
「ですから」蒼次郎は不敵な笑みを浮かべた。「俺は蒼次郎なんですよ、藍子さん」

 藍子はゆっくりと顔をあげて、激しく混乱した表情を浮かべた。

「でも―」
「俺に読まれたら恥ずかしいですか?」
「そ、そんなことは…」
「長年、文通を続けてきた蒼次郎は‘兄’のようなものだった。…同じようなことを彼も言ってました。あなたは守ってあげなければならない‘妹’のようなものだと。あなたのために、どうしても死ぬ訳にはいかないのだと」

 藍子は‘死’という言葉に意図せず息を呑んだ。しかし、蒼次郎はそれ以上のことは語らず、しっかりと彼女の視線を捕えて言う。

「では、俺はどうですか?」
「え」
「俺はあなたにとって何ですか?」

 視線が絡み合った。藍子は彼の質問の意味をゆっくりと反芻しながら必死に考えを巡らす。

「過去の些細な過ちや、恭一郎に抱いたほのかな恋心や、そうですね、蒼次郎が贈ったあの紫檀の鏡の向こうへ行ってみたいと…そういう、兄のような存在になら包み隠さず話せたことを俺に知られることに抵抗を感じますか?」
「そ…っ、蒼次郎さんっ」

 頬を染めて声を震わせる藍子を、蒼次郎は相変わらずの冷たい笑みで、むしろ面白そうに眺めている。

「もしもそうなら、あなたは俺を‘男’として意識している。違いますか?」

 何かを言おうとして、口を開きかけた藍子は、一旦口を閉じて、必死に呼吸を整えた。

「蒼次郎さんは、そんな意地悪はおっしゃいませんでしたわ」
「ええ、彼は紳士でしたから」蒼次郎は笑った。「藍子さん、俺はあなたの兄に甘んじるつもりはありませんよ」

 ぷい、とそっぽを向いた藍子に、蒼次郎はたたみ掛ける。

「ですから、俺についてくる覚悟はありますか? とお尋ねしてるんです。俺が蒼次郎を名乗る限り、あなたは俺のものなんですから」

関連記事
スポンサーサイト


もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 六趣輪廻
もくじ  3kaku_s_L.png 
もくじ  3kaku_s_L.png 夜船閑話
もくじ  3kaku_s_L.png 刹那
もくじ  3kaku_s_L.png 蓮華国
もくじ  3kaku_s_L.png タナトスの翼
もくじ  3kaku_s_L.png さくら
もくじ  3kaku_s_L.png 聖火
もくじ  3kaku_s_L.png アニマ
もくじ  3kaku_s_L.png 聖~セイント~
もくじ  3kaku_s_L.png 狭間
もくじ  3kaku_s_L.png 完全数
もくじ  3kaku_s_L.png 天女のように
もくじ  3kaku_s_L.png 藍色哀歌
もくじ  3kaku_s_L.png こくはく
総もくじ  3kaku_s_L.png 短編
もくじ  3kaku_s_L.png ザ!霊障
  • 【藍色哀歌 第三部 飛翔1】へ
  • 【藍色哀歌 第三部 飛翔3】へ

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

  • 【藍色哀歌 第三部 飛翔1】へ
  • 【藍色哀歌 第三部 飛翔3】へ