藍色哀歌

藍色哀歌 第ニ部 魍魎7

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 翌朝、藍子が蒼次郎の部屋の扉から出てくる姿を、藤堂も狭霧も目撃していた。恐らく、そうなるように蒼次郎が謀ったのだろう。二人が朝食に下りる時間を蒼次郎は知っていた。二人の唖然とした視線に頬を染めて、藍子は慌てて階段を駆け下りて行った。

「お嬢さんもやるじゃないか」と、口笛を吹いた藤堂と対照的に、狭霧の顔色は赤黒く怒りに燃え上がっていた。

 藤堂はそのまま藍子の後を追うような形で階下へ向かい、狭霧は憤怒の表情で、たった今藍子が出て行った部屋の扉の前に立った。ノックしようとして怒りに手が震え、彼はくるりと踵を返し、また戻ってきてまるで扉の向こうを透かして見ているように睨みつけてみる。荒い呼吸をなんとか整えようとしながら狭霧が再び扉を叩こうと向き直ったとき、不意にドアが開いた。

「―どうぞ、狭霧さん。ご用がおありのようですから」

 唇の端をあげて笑みを浮かべた蒼次郎のその瞳を、もしも藤堂が見たとしたら、彼はそのまま表情を凍りつかせて後ずさったであろうと思う。しかし、怒り狂っている狭霧は気付けなかった。蒼次郎の笑顔の下の氷のような冷たい光の存在を。

 蒼次郎は赤の長袖シャツと深い緑のパンツといういつものスタイルで、相変わらず無表情のまま狭霧を迎え入れる。

「君は―」

 スーツ姿の狭霧は、部屋の中を落ち着きなく動き回り、憤りに呼吸が再び荒くなっている。

 こんなフザけた格好の男が諏訪の後継者とは!
 一度ならず二度までもお嬢さんとこいつにコケにされるとは!

 昨夜、藍子に蒼次郎に関する調査報告書を持って会いに行った狭霧は、明かりの点いたままの部屋の中で数時間待ちぼうけを食わされた挙句、すごすごと部屋に戻るしかなかったのだ。

 その報告書を見れば、藍子の気が変わるだろうと狭霧は思っていた。騙されていたことにショックを受け、蒼次郎を見限り、彼を受け入れてくれるのではないかと―。

 それが―!

「君は―」
「俺が、なんですか?」

 腕を組んで窓辺に寄りかかり、蒼次郎は興味深そうに狭霧を眺めている。その落ち着き払った態度に狭霧は益々怒りが沸騰した。糾弾しようとして息を吸い込み、それでも直接相手の顔を見ることが出来ずに視線を逸らせたとき、まだ整っていないベッドがふと視線の端に捉えられて、枕に藍子の長い髪の毛が落ちているのが目に入った。

「君は、成島蒼次郎ではない!」

 頭に血が上って狭霧は叫んだ。

「成島は、蒼次郎は―」

 しかし、狭霧はそれ以上の言葉を紡げなかった。彼の首にはナイフが突きつけられていたのだ。

「俺がどうかしましたか? 狭霧さん?」

 まるで甘い声で蒼次郎は微笑んだ。いつの間に狭霧の背後に回りこんだのだろう。喉元に当てられた刃先の長い鋭いそのナイフは殺傷能力が高いことが一目瞭然で、更に狭霧の右手は背中に捻りあげられている。

「俺は親切にも警告いたしましたよ」
「何をす―」

 狭霧は逃れようと必死にもがきながらも、同時に目の前のナイフに視線が釘付けになっている。

「報告書をご覧になったんでしょう? では、俺がどういう人間か分かりましたよね?」

 蒼次郎は掴んでいた狭霧の腕を更に捻った。その甘い声色はむしろ背筋を粟立たせる危険な香りを漂わせている。

「まぁ、どこまで核心が書かれているのかは確認しませんでしたが、目に見える分はおおかた合っているんでしょう。彼らもプロですからね」
「では、君は…認めるんだな?」

 腕の痛みに顔を歪め、肌に触れるか触れないかのナイフにじっとりと汗をかきながらも狭霧はまだ余裕があると信じていた。

「狭霧さん」蒼次郎は彼の耳元でくすりと笑う。「ご自身の立場を分かってますか? 俺がそれを認めたら、貴方は俺にとって不都合なことを知ってしまったと人間いうことになるんですよ?」

 穏やかな声に紛れてそれまで気付かなかった。優位だと錯覚していた立場が逆に崖の上に追いつめられていたことを。追いつめた筈の相手は、むしろ、一段上から彼を突き落とそうと狙っているのだ。ぞくりと背筋に冷たいものが走った。ここへ来てようやく狭霧は悟った。自分が喧嘩を売った相手が誰なのか、を。

「お、お嬢さんに君の正体をバラしたら―」
「藍子さんには近づくなと申し上げておりましたが」

 不意に声のトーンが落ちた。それまでの柔らかい声が一気に冷え、その低い響きに狭霧は全身に震えが走った。

「け…警察に」
「そんな暇を与える訳ありませんよ」

 ため息混じりの呆れた声が聞こえ、思わず見つめた蒼次郎の瞳の暗さに狭霧は凍りついた。

「ま―待て。待ってくれ」
「残念ですが、温情は一度きり」

 風がさあっと頬を撫でた。窓が開いていることに初めて気付いた。いや、違う、たった今まで窓は閉まっていた筈だった。いったい誰が―?


「狭霧はどうした」

 いつもなら皆揃う時間になっても、ダイニングに狭霧の姿はなかった。

「いえ、部屋を出るところまでは一緒だったんですが」

 藤堂は、同意を求めるように藍子に視線を移したが、彼女は俯いたまま顔をあげなかった。

「お探しして参りますので、皆様はお食事を始められてください」

 皐月は、恭一郎にその場を託して部屋へあがっていった。一同は静かに食事を始めたが、藤堂はなんだか胸騒ぎをおぼえた。あの後、藍子が部屋へ戻っていく姿を見送り、彼は階下へ向かった。当然、後ろについて来てると思っていた狭霧はそのとき姿が見えなかった。

「まさか…」

 藤堂は呟く。

 まさか、狭霧はあの後、蒼次郎の部屋を尋ねたりしてないだろうな。ちらりと蒼次郎に視線を走らせてみたが、彼はまったく落ち着いて食事を続けていた。藍子はもちろん彼の方をまったく見ない。その時点では、まだ誰も深刻な事態を想像していなかったのだろう。

 やがて戻って来た皐月は困ったような顔をしていた。

「どこにもお姿が見当たりません」
「そんなバカな」

 藤堂は立ち上がった。

「探してきます」

 藤堂の声に押されるように、その後狭霧を皆で探したが、彼の姿は屋敷内のどこにもなかった。ビジネスバッグや靴が消えており、いつの間にか出かけたのではないか? ということになったが、それ以上のことはまったく分からない。

「まさか」

 藤堂は、不安そうな藍子の傍で彼女の肩を抱いている蒼次郎の横顔に、冷たい笑いを見た気がした。


 狭霧の不可解な失踪から数日が経過し、その事件自体をなかったことに決めた諏訪家では、誰もが彼のことに関しては口をつぐんだ。海外へ発つ筈だった父はしばらく予定を延ばし、これ以上の不測の事態はご免だとばかりに、諏訪の家では藍子の高校卒業を待たずに来春にも婚礼という段取りを早急に推し進めていた。

 そんな中、藤堂は戻らない狭霧を諦め、彼のやっていた仕事を整理するために彼の部屋を片付けていた。その日、ふと彼が保管していた資料の中から探偵社からの調査報告書を見つける。用済みになったものは処分されている筈だったので、まだ処理済ではない案件があったのか、と彼はふと封筒の中身を確かめる。そして、そこに狭霧の失踪の真相に辿り着く驚愕の事実を見つけてしまう。

「これは―」

 狭霧がほくそ笑んだ同じ衝撃を、藤堂は青ざめ、震え上がって見つめた。

「バカなやつだ」震える手が思わず取り落とした書類を慌ててかき集めながら、藤堂は恐怖に引きつった表情で周囲を見回す。「僕は警告したのに。バカなやつ」

 窓の外から人の声が聞こえて、藤堂は飛び上がりそうになった。大慌てで彼は今見た書類を封筒の中に必死に押し込む。そして、それを元の棚に戻す瞬間、ふと窓の外の光景が目に入った。そこには庭ではしゃぐ藍子の白い背中と、庭の手入れをしている恭一郎の横顔、そして、明かにこちらを見ている蒼次郎の鋭い眼光が捕らえられた。

「僕は…僕は、何も見てない」

 思わず藤堂はそう呟いていた。

「僕は何も知らない!」

 叫んで藤堂は彼の部屋を飛び出す。

 冗談じゃないぞ、確かに婿養子の話に誘われて請けた仕事ではあった。兄が父の事業を継いだため藤堂は外へ修行に出された。それでも、家に戻ればそれなりのポストは用意されている。華族の名前欲しさに秘書を続けてきたが、その可能性が消えた今、ここに留まる理由なんてない。今までやってこれたのは、狭霧という相棒がいたからだ。似た境遇で諏訪に遣わされた正反対の二人がお互いに得意分野を引き受けてやってきたのだ。

 こんなところで殺されてたまるか!

 藤堂は大慌てで部屋に駆け戻り、荷物をまとめ始める。一刻も早くここを出なくては! あまりに慌てふためいていたため、何度も同じ物を探したり、クローゼットを何度も開け閉めしたりとまったく行動に脈絡を失っていた。もう仕事の確認も段取りもなく、とにかく逃げ出すことしか頭になかった。

 そのとき不意に扉を叩く音を聞き、皐月がお茶でも持ってきたのかと思い、藤堂は荷物をカバンに押し込みながら怒鳴るように答えた。

「今、急がしいんだ、後にしてくれ」
「何をそんなにお急ぎで?」

 振り返ると、そこに立っていたのは蒼次郎の黒いシルエットだった。

「うわあっ」思わず藤堂は腰を抜かしてその場に座り込んだ。
「僕は―、僕は何も知らない! 何も見ていない!」

 バカなことを言ってると頭では分かっているつもりだった。蒼次郎は相変わらず無表情ともとれる静かな眼差しで必死に後ずさる藤堂を眺めていた。

「今、ここを出て行く。き―君を煩わせるようなことはしない。もう、君の目の前から消える! だから―」
「消える?」

 ごく単調に彼は繰り返す。

「き―」言いかけて、藤堂は背筋にざあっと冷たいものが走った。「消す―つもりか? 僕のことも?」

 そうだ、狭霧はこの屋敷の中で忽然と消えてしまったのだ。

「待て! 待ってくれ、僕は本当に―」
「藤堂さん」蒼次郎の口調はあくまで穏やかだ。「俺はまだ何も言ってませんよ」

 僅かの沈黙が二人の間を流れていく。窓の外からはまだ藍子の声が聞こえていた。カーテンを全開にした窓から光がさんさんと差し込んでいるのに、その空間は凍りつきそうなほど冷たい空気で満たされている気がした。

「諏訪の義父は、貴方が必要です。何故、出て行くんですか?」

 扉に背を預けたまま、蒼次郎は笑みを浮かべる。藤堂は蒼次郎の空気を探るように、必死に息を殺し、目の前に立つ相手を見上げた。

「今後とも、義父をよろしくお願いしますよ、藤堂さん」

 それは、一瞥で相手を凍りつかせることが出来る、言葉とは裏腹な有無を言わさない眼光だ。信念と自信に裏打ちされる絶対的な命令だった。

「…わ、分かった」

 藤堂は慌てて立ち上がる。そして、それまで詰め込んでいた荷物を片っ端から放り出し始めた。

「分かった。ここにいる」

 カバンの中身をまるで必死に掻き出す藤堂の様子を蒼次郎は黙って眺めた挙句に目を細めて言い添えた。

「ああ、藤堂さん。貴方のご実家は、水産加工会社が母体の基幹産業だそうですね」

 ぎくりと藤堂の手が留まる。

「お兄さんは新事業を企画されて頑張っていらっしゃるそうだし、今年、妹さんはご婚礼の予定がおありだとか?」

 何か言おうとして口を開きかけたが、喉がからからに渇いて声にならなかった。

「おめでとうございます」

 目を細めた相手がまったく笑ってないことだけが分かる。鞄の中のシャツを掴んだ手が震えていた。

 
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