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天女のように

天女のように 5 残像

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 大学を卒業して、私はなんとなく家の近所の会社に就職した。兄が定職にも就かず、あまりにも家にいない人で、父や母が嘆いているのをよく聞いていた私は、せめて自分はごく普通の娘でいてあげようと思ったのだろう。そして、なるべく、兄の悪口を聞きたくなかった。兄の代わりに家にいて、兄の代わりに良い娘でいてあげるのが親孝行だと信じていた。

 そんな風に考えること自体がすでにおかしくて、すでにバランスが狂っていることを私は気づけなかった。そもそも、私の異様なまでの孤独感はどこから来るのか? 両親がいて、ちょっと変わってはいても兄がいて、愛されて育ってきた筈なのに。

「シューちゃん、お兄さんから連絡あった?」

 時折、高校時代の友人からメールや電話で聞かれる。日常、私は兄のことなんて思い出しもせずに暮らしているのに、そういう友人の鋭い一言に動揺する。本当は毎日一秒だって休まずに、絶え間なく、兄のことを考えているゲンジツに不意に引き戻される。

 一瞬の沈黙で、相手はすぐに理解してくれる。それ以上突っ込まずに話題を変えてくれる。そんな風にさり気なく無造作に私を扱ってくれる友人の存在に救われている。関係性とは、時間とは別にどれだけ濃い理解をお互いに抱けるかで深まったり途切れてしまったりするものなんだと知った。

 小学校時代からの友人とも普通に付き合いは続いていたが、兄のことを話せるのは、あの兄と直接言葉を交わし、私と同じような気遣いを向けられた高校時代の友人たち―特にその中の一人は追っかけの域に達するほど兄とは親密な交流を続けていた―だけだった。

 目の前にいてもなんだかつかみどころのない人間だった兄が、消えてしまった途端、その存在の輪郭が少し理解出来るようになってきた。

 いつも、いつでも私は兄を思い出していた。いや、違うな。どう表現すれば良いんだろう? 兄のことを考えていない時間を数えた方が早いと言えば良いのか? どんなに忙しくても、楽しくて笑ってはしゃいでいても、或いは怒り狂って憤っている瞬間ですら、私の思考の根底には兄がひっそりとそこにいた。まるで兄の魂のカケラが私の深い部分に引っ掛かって時折風に揺られているようなもどかしい存在感で。

「俺はな―」といつか兄が珍しく少しは真面目な表情を浮かべて私の目を覗きこんだことがある。

 なんとなく、熱に浮かされてぼんやりしているイメージがあるから、私が風邪をひいて寝込んでいたときだったのだろうか。母がお粥を作ってくれたり、薬を用意してくれたりしてパタパタしている傍で、兄はどっかりと私のベッドの脇に腰を下ろして、何故かにこにこしていた。

「そうだな、回遊魚のマグロって知ってるか?」
「…かいゆう? お刺身のマグロのこと?」
「バカ、刺身のマグロは死体だろう」

 熱を出して弱っている妹に何を言ってるんだ、こいつは、と私はぼうっとする頭で思った。

「マグロはな、泳ぎ続けていないと死んでしまうんだよ」
「なんで?」
「泳ぐことで呼吸をしているのさ」

 いったいあれはいつのことだっただろう? 小学生の頃だろうか。幼い頃から、私は変な兄のお陰でそういう生物学的な知識はある方だった。嘘か本当か分からない動物の話を大真面目な顔をして兄はよく語ってくれたのだ。

「大変だね」

 なんとなくピンとこなくて、私はそれでも心から同情してそんな風に答えた。眠ることもせずに泳ぎ続けているなんて考えただけで大変そうだ。

「俺は、そのマグロと同じなんだよ」
「泳いでないじゃん」

 間髪入れずにそんな突っ込みを入れた自分にも呆れてしまうが、兄は真面目なのだった。兄は目を細めて私を見つめ、言った。

「マグロが泳ぎ続けていないと死んでしまうように、俺も人生を走り続けていないと死んでしまうんだよ」

 なんで兄がそのとき、そんなことを言ったのか思い出した。風邪をひいて寝込んでいる私を置いて、どこへだったか出かけるという話しをした兄に、私が「こんなときくらい家にいてくれても良いじゃないか」という感じの我儘を言ったからだった。

 体調が悪いとき、実際に頼りになるのは母であって、兄はいたって何もしてくれる訳じゃないのに、私は弱っているときは何故か兄に傍にいて欲しかった。

「俺が立ち止まるときは、きっと死ぬときだな」

 私の頭を撫でながら、兄は笑った。

「まぁ、もしかしてお前より長生きする可能性もあるけどな」

 その笑顔が熱のせいで透けて見えるようだった。どうしてあんなに澄んだ目をするんだろう、あの男は。私はなんだか涙が出そうになって慌てて毛布を顔まで引っ張りあげた。

「大人しく寝てろ。風邪なんて安静と休養で治る!」

 普段の兄は両親にとっては心配の種で、周囲にとっては大雑把で豪快であんなに存在感があるのに、時々まるで空気に溶けてしまいそうに儚く感じることがあった。それはどんな種類の寂しさだったのだろう、と時々考える。兄の魂に切なく揺れ続けている清らかな聖域。そこに在るのは何色の宝石で、どんな歴史を抱いているのだろう、と。

 それは嫉妬にも似た、奇妙な感覚だった。



 兄は、もう生きていないかも知れない。と、ふとした瞬間、考える。

 こんなに長い時間を兄と離れて暮らしたことのない私は、切るような寂しさに押し潰されそうだった。孤独感というのだろうか、虚無感とでも表現すれば良いのだろうか。兄は私の人生にとって「核」だったのだ。

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