タナトスの翼
タナトスの翼 13 残酷な寒さ
自分一人のためだと思うと特に何も作る気が起きず、杏子はキッチンのテーブルで教科書を広げたままぼんやりしていた。
コーヒーや紅茶、緑茶に中国茶など、直樹は何が好きなのか分からないため、いろいろ出してみるのだが、彼は何も言わずに黙ってなんでも飲んでくれる。ミルクを入れますか? とか、砂糖は…? と聞くとようやくそれにだけは答えてくれる。それで、なんとなく、こういう場合は甘いコーヒー、夜中を過ぎたときには軽いハーブティー、そんな風に空気を感じるようになった。それから、なんでも食べてくれる彼ではあったが、多少の好みもなんとなく分かるようになってきた。そうやって彼自身というより、彼の発する空気を注意深く見つめていると、杏子は彼の体調と好みを把握できるようになってきた。徐々に、彼との生活にリズムが出来始めていた。言葉のない会話を交わすように。それを宝物のようにそっと、身体に沁みこむように抱きしめてきた。それがすべてだった。
不意に家の外に人の気配がした。そして、鍵をがちゃがちゃ開けようとしている音が響き、杏子は、直樹が帰ってきたことを知る。ふと時計を見ると、とっくに真夜中をまわっていた。
直樹はうまく鍵が開けられないのか、いつまでも外でがさがさと音がして、杏子は慌てて内側から鍵を外し、扉を開ける。
突然扉が開いて、直樹は少し驚いたようだった。青い顔をして、そして、目の焦点が定まっていない奇妙な表情で彼女を虚ろに見つめた。
「おかえりなさい」
そう声を掛けると、彼は一歩を踏み出し損ねて、そのまま杏子の方に倒れこんできて、彼女は、彼の全身から漂うタバコとお酒の匂いに、えっ? と驚いて不意をつかれ、彼を支えきれずに一緒に玄関に倒れこんでしまった。
「せ…先生? 飲んでらっしゃるんですか?」
彼の身体をなんとか支えながら、杏子は必死に立ち上がろうとする。
「寝てなかったのか?」
意外に直樹の声はしっかりしていた。
「いえ、あの…寝そびれてました」
杏子は動こうとしない直樹の身体をなんとか抱き起こそうと必死だった。
「先生…あの、起きてください」
玄関の扉は開いたままで、もう、大分涼しくなった秋の風がすうすうと家の中に吹き渡る。直樹の息のお酒の匂いに、杏子も酔いそうな気分だった。彼がこんなに飲んで帰ってきたのは初めてだった。何があったのだろう?
「先生、立てますか? こんなところにいたら風邪をひきます」
なんとか直樹の身体の下から抜け出て、杏子は、玄関からまだはみ出たままの直樹の足を家の中に入れ、扉を閉めた。鍵を閉めて振り向くと、直樹は身体を起こして杏子をじっと見つめていた。その瞳の色に杏子は心がどきりとする。酔って潤んだ瞳だったが、不思議に澄んだ深い憂いを湛えていたのだ。
「あ…あの、大丈夫ですか?」
少しどぎまぎしながら杏子は直樹の横をすり抜けてキッチンへ向かい、グラスに水を注いで持ってくる。
直樹はそれを受け取って一気にグラスを空け、彼女に空のグラスを差し出した。
「…もう一杯飲みますか?」
とそのグラスを受け取ろうとした彼女の手を不意につかむと、直樹はそのまま杏子の身体を引き寄せ、強く、強く、抱きしめた。
「先生?」
グラスが落ちて割れる音が響いた。
その音に不意に身動きをした杏子の動きを封じるように、直樹は更にその腕に力をこめる。小柄な杏子はその腕のきつさに息が苦しくなり、同時に体の奥がじんと熱くなるのを感じた。それは、もう死んでも良いと思うような切なく狂おしい想いを伴って彼女の身体を衝き抜けた。
「何もしない。しばらくこのままでいてくれ」
呻くような、絞り出すような声を、直樹の胸から直接聞いた。
切ない。
ただ、切ない‘恋’だった。
誰よりも求め合い、魂は近くにいて、これ以上ない信頼を育んでいける二人なのに、抱きしめあっているだけで二人は引き裂かれていく。二度と触れ合うことは許されない。そんな残酷な現実が二人をぴったりと取り巻いていた。
不思議に杏子の心はしんと澄んで、まるでトレースするように、直樹の心がくっきりとした形を成すのを、そこに言葉も約束も何もなくても、そっと寄り添って溶けていけそうな、そんな気がしていた。彼の向かう方向へ寸分違わずに。
そして、そういう心とは裏腹に、彼女の気持ちはこれ以上ないくらい激しく揺れ、しがみついた彼の背中がまるで凍えているかのように寒かった。寒くて寒くて、温めてあげたくて、杏子は、ただ必死に彼にしがみついた。
彼の心の内の寒さが、怖かった。
コーヒーや紅茶、緑茶に中国茶など、直樹は何が好きなのか分からないため、いろいろ出してみるのだが、彼は何も言わずに黙ってなんでも飲んでくれる。ミルクを入れますか? とか、砂糖は…? と聞くとようやくそれにだけは答えてくれる。それで、なんとなく、こういう場合は甘いコーヒー、夜中を過ぎたときには軽いハーブティー、そんな風に空気を感じるようになった。それから、なんでも食べてくれる彼ではあったが、多少の好みもなんとなく分かるようになってきた。そうやって彼自身というより、彼の発する空気を注意深く見つめていると、杏子は彼の体調と好みを把握できるようになってきた。徐々に、彼との生活にリズムが出来始めていた。言葉のない会話を交わすように。それを宝物のようにそっと、身体に沁みこむように抱きしめてきた。それがすべてだった。
不意に家の外に人の気配がした。そして、鍵をがちゃがちゃ開けようとしている音が響き、杏子は、直樹が帰ってきたことを知る。ふと時計を見ると、とっくに真夜中をまわっていた。
直樹はうまく鍵が開けられないのか、いつまでも外でがさがさと音がして、杏子は慌てて内側から鍵を外し、扉を開ける。
突然扉が開いて、直樹は少し驚いたようだった。青い顔をして、そして、目の焦点が定まっていない奇妙な表情で彼女を虚ろに見つめた。
「おかえりなさい」
そう声を掛けると、彼は一歩を踏み出し損ねて、そのまま杏子の方に倒れこんできて、彼女は、彼の全身から漂うタバコとお酒の匂いに、えっ? と驚いて不意をつかれ、彼を支えきれずに一緒に玄関に倒れこんでしまった。
「せ…先生? 飲んでらっしゃるんですか?」
彼の身体をなんとか支えながら、杏子は必死に立ち上がろうとする。
「寝てなかったのか?」
意外に直樹の声はしっかりしていた。
「いえ、あの…寝そびれてました」
杏子は動こうとしない直樹の身体をなんとか抱き起こそうと必死だった。
「先生…あの、起きてください」
玄関の扉は開いたままで、もう、大分涼しくなった秋の風がすうすうと家の中に吹き渡る。直樹の息のお酒の匂いに、杏子も酔いそうな気分だった。彼がこんなに飲んで帰ってきたのは初めてだった。何があったのだろう?
「先生、立てますか? こんなところにいたら風邪をひきます」
なんとか直樹の身体の下から抜け出て、杏子は、玄関からまだはみ出たままの直樹の足を家の中に入れ、扉を閉めた。鍵を閉めて振り向くと、直樹は身体を起こして杏子をじっと見つめていた。その瞳の色に杏子は心がどきりとする。酔って潤んだ瞳だったが、不思議に澄んだ深い憂いを湛えていたのだ。
「あ…あの、大丈夫ですか?」
少しどぎまぎしながら杏子は直樹の横をすり抜けてキッチンへ向かい、グラスに水を注いで持ってくる。
直樹はそれを受け取って一気にグラスを空け、彼女に空のグラスを差し出した。
「…もう一杯飲みますか?」
とそのグラスを受け取ろうとした彼女の手を不意につかむと、直樹はそのまま杏子の身体を引き寄せ、強く、強く、抱きしめた。
「先生?」
グラスが落ちて割れる音が響いた。
その音に不意に身動きをした杏子の動きを封じるように、直樹は更にその腕に力をこめる。小柄な杏子はその腕のきつさに息が苦しくなり、同時に体の奥がじんと熱くなるのを感じた。それは、もう死んでも良いと思うような切なく狂おしい想いを伴って彼女の身体を衝き抜けた。
「何もしない。しばらくこのままでいてくれ」
呻くような、絞り出すような声を、直樹の胸から直接聞いた。
切ない。
ただ、切ない‘恋’だった。
誰よりも求め合い、魂は近くにいて、これ以上ない信頼を育んでいける二人なのに、抱きしめあっているだけで二人は引き裂かれていく。二度と触れ合うことは許されない。そんな残酷な現実が二人をぴったりと取り巻いていた。
不思議に杏子の心はしんと澄んで、まるでトレースするように、直樹の心がくっきりとした形を成すのを、そこに言葉も約束も何もなくても、そっと寄り添って溶けていけそうな、そんな気がしていた。彼の向かう方向へ寸分違わずに。
そして、そういう心とは裏腹に、彼女の気持ちはこれ以上ないくらい激しく揺れ、しがみついた彼の背中がまるで凍えているかのように寒かった。寒くて寒くて、温めてあげたくて、杏子は、ただ必死に彼にしがみついた。
彼の心の内の寒さが、怖かった。
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